慌ただしく整理した部屋の隅にはいくつものダンボール箱が置かれている。
「結局間に合わなかった。今日までに片付けるつもりだったのに。仕事の引継ぎがあんなにかかると思わなかったから」
「でも引っ越しまでにはまだ日にちがあるんでしょ」
小さなキッチンの脇のテーブルでお茶を淹れながら母が言う。
「まあ、そうなんだけどね。ここ、けっこう長く住んだから、持ち物って気づかないうちに増えるもんだね」
「何年になる?」
「就職してからずっとだから、6年かな。でもこんなにバタバタするものなのかしら、みんな」
「どうだろうね。そうかもしれないね。自分の誕生日も忘れるくらいにね」
そう言って母は笑った。
母とふたりでゆっくり話をするのは久しぶりだった。
「あなたが生まれた夜、お父さん大泣きしてたのよ。おばあちゃんが話してくれたの。あんな姿を見たのは後にも先にもあの時だけだって」
「大泣きって、そんなに残念だったの?男の子じゃなかったのが」
「そうじゃないのよ。お父さん、本当に女の子が欲しかったんだから。お兄ちゃんの時だって女の子がいいってずっと言ってたんだもの」
「うそでしょ。だって私が生まれたとき病院に顔も見せなかったってお母さんが・・」
「病院でそんな大泣きしたらほら、狭い街だもの。すぐに噂になるでしょ。お父さんそういうのだめだから。東京のお姉さんの話では、お父さん小さい頃は泣き虫で有名だったって。それでだいぶからかわれたらしいから、そういうのもあったんじゃない」
「初めて聞いた。あのお父さんが泣き虫ねえ、ぜんぜん信じられない」
「お父さんには内緒にってお姉さんにもそう言われたしね」
「東京の伯母さんか・・私あの人嫌いよ。お母さんのこといじめて。おばあちゃんのお葬式のときは本当に腹が立った。お母さんのせいでおばあちゃんが助からなかったみたいに」
「ああ、あれはそうじゃないの。あの人が怒ってたのはね、私の立場を思ってのことなの」
「どういうこと?だって、自分に連絡しないで勝手に判断したからおばあちゃんが助からなかったみたいに」
「違うの。田舎だからね。ほら、いろんな人がいろんなことを言うのよ。嫌なことをね。だからね、自分に連絡をしてくれてれば、こうなった時に私だけが責められなくて済むでしょって」
祖母が倒れた夜、父は出張で留守だった。私が初めに異変に気づいて母に知らせ、母が救急車を呼んで病院に運んだ。しかし意識は戻らないまま翌日の明け方に亡くなった。
葬儀の席では、運んだ病院の選択や救急車が来るまでの手当てのことで母を責める声が囁かれた。東京に嫁いでいた父の姉も、なぜすぐ連絡をくれなかったのかと母に言いながら泣いていた。
祖母が死んでしまった悲しみと母が責められている悔しさに、小学生だった私は何も言えず暗い部屋でひとり泣いていた。
「そんな・・わたしずっと伯母さんのこと誤解してた。十何年も。どうしよう」
「いいじゃない。今その誤解が解けたんだから。明日会ったらそのこと話してみたら。たぶん伯母さん笑うだけだと思うけど。そういう人だから。初孫のお世話でそれどころじゃないかもしれないけど」
「そっか、伯母さんももうおばあちゃんなんだね。なんだか不思議」
仕事で忙しかった両親に代わって、祖母が小さい頃の私と兄の面倒を見てくれた。歴史好きの祖母は私を膝に抱いていろんな話をした。
「世界中で不幸せな戦争がたくさんあったんだよ。兵隊さんは家族と離れて遠くの国で戦って、誰も帰って来なかった。お国で待っている女の人たちも、とてもひどいことになった。でもね、忘れちゃだめだよ。たくさんの命が無くなって、それで世界は少しずつ良くなった。だから大丈夫」
祖母が命という言葉を口にするたびに、私は祖母が死んでしまうことを想像してとても怖くなった。
そう言うと祖母は私の頭に優しく触れながら言った。
「大丈夫だよ。必ずまた会えるから。命は廻る。くるくるくるり。くるくるくるり」
その手の感触は今でも不思議なくらいにはっきりと残っている。
「ねえお母さん、お父さんが校則のことで校長室に怒鳴り込んだことあったでしょ。髪の毛のことで。覚えてる?」
「ああ、あれね。あの時のお父さんには驚いた。あれだけは未だに謎のままね」
私の卒業した私立の女子校は比較的裕福な家庭の子が多く、校則はとても厳しかった。男性とふたりで街を歩くには届け出が必要で、それは実の父親も例外ではない。とは言っても私には父とそういった時間を過ごす機会はまったくというほど無かった。
仕事で忙しかったとはいえ、自分の娘にほとんど興味が無いような振る舞いに、私はずっと腹を立てていた。
「きっとさ、そもそも日本女性の髪は、みたいなことだったんじゃないの。ほら、男子たるものは、ってお兄ちゃんにいつも言ってたみたいに」
「どうだろう。あのひと自分でも言ってた。どうしてあんなに興奮したのか分からないって」
いずれにしても私に関することで父があれほど感情的になったことは他に憶えがない。おかげで私の長い髪は守られたけれど。
「お父さん、喜んでくれてるのかな」
「あたりまえでしょ。世界中でいちばん祝福してくれてる。悔しいけど私は二番目ね」
幼い頃のように母と手を繋いで寝た私は不思議な夢を見た。
曇り空の下、行列の流れの中をゆっくり歩いている。
列を成しているのは皆女性で、その顔立ちは私とあきらかに違い、周りに見える建物も古いヨーロッパの街並みのよう。
モノクロのフランス映画の中にいるような感覚の中、誰もが黙ったままうつむき加減で、向かう先にあるものが不吉な何かだということを伺わせる。
ふと見ると前の方からこちらに歩いてくる人たちがいる。やはり列を成し無表情のまま私の横を逆方向へと進む。
そのとき私を支配する違和感の意味に気づくのにいくらかの時間がかかった。
彫りの深いその顔立ちの女性たちはみな丸刈りで、やせ細った輪郭は虚ろで精気を欠いた瞳を際立たせている。私は自分の頭に手を当て髪の毛の存在を確かめる。
柔らかく長い髪に手櫛を通すと、今まで感じたことのないほどの愛おしさに涙が頬をつたう。
幼い子供がするように涙を拭ったその袖口はボロ布のように擦り切れている。
そして私は手に一輪の花を見つける。
淡いピンク色の花びら。
見覚えのあるその花の名前がどうしても思い出せない。気づくと列に並ぶ全ての女性達の手には花があり、モノクロの世界のなかで彩とりどりの花びらだけがそこにある命の証明となり、その光の反射は彼女たちの瞳に微かながら明るい何かを届けていた。
「もう起きなさい」
目を開けると見慣れた部屋の窓のカーテンの隙間から日が射し、台所で母が朝食を作っている音が聞こえる。
幼い頃に毎朝聞いていた懐かしい音だ。
「新婦なんていうのはほとんど何も食べられないんだから、朝ごはんはちゃんと食べないとね」
「うん、ありがとう」
「その前にお父さんに挨拶ね」
私は今日の式で母が胸に抱くことになっている父の写真に心の中でおはようと言った。
「もう少しいい写真無かったの?この険しい顔」
「そう?お父さんらしくていいと思うけど」
「まあそうね。これがお父さんだもんね」
気持ちよく晴れた午後、私のいる控え室から出ていった兄夫婦と入れ違いに東京の伯母が入って来た。
「あら綺麗ね。おめでとう」
抱っこされた小さな女の子が首もとの真珠のネックレスを引っ張っている。
「やめて。切れちゃうでしょ、もう」
「もう1歳になる?」
私の横で母が聞いた。
「そう、来月でね。やんちゃ盛りよ、泣き虫のくせにね。ほら、このお姉さんは今日お嫁さんになるのよ。綺麗でしょ」
伯母がそう言うと女の子はわたしの顔をじっと見つめたまま難しい顔をしている。
「こんにちは。初めまして」
そう言って柔らかいほっぺに触れてもその表情は変わらない。
「あら、嫌われちゃったかしら。女の子にはけっこう好かれるんだけどな」
私が化粧台の花瓶からカーネーションを一輪とって女の子に渡すと、彼女はそのピンク色の花びらをじっと見つめて、今度は今にも泣きだしそうな顔になる。
「あ、嫌だったかな?ごめんね」
そう言うと今度は満面の笑みを浮かべた。私がほっとしてその柔らかい髪に触れると、彼女はとてもかわいらしい笑い声をあげた。
「こんなにおっきな声で笑ったのはじめてよ。さっきのしかめっ面はどこ行ったのかしらねぇ」
天井の高い広い部屋に4人の笑い声がきれいに響いた。
テーブルの上の父が優しく微笑んだ。