独り住まいのベッドで横になり、彼は残り少なくなった時間に思いを巡らせていた。
もうだいぶ長く生きた。
やり残したことは無いし、死というものにそれほどの恐れもない。
ただ、この人生に欠けていた大切な何かが彼を揺さぶる。そして長い夢を見た。ふたりの少年が列車に乗り込むところから始まるその夢の主役は彼自身だ。
人も疎らな早朝のターミナル。僕たちはしっかりと手をつないでその列車に乗り込んだ。
目的地もかかる時間も知らない。わかっているのは、ここを離れて線路の先にある終点の街で暮らすのだということだけだ。
発車の合図が鳴り、少しの振動とガタンという音がして車両が動き出すと、僕は少し不安になった。
「大丈夫だよ。なんだかワクワクするね」
彼の言葉に僕はとても安心した。
列車は進む。
薄暗かった町並みは高くなり始めた陽の光を受けてだんだん鮮明になり、乗客はひと駅ごとに増え車内は少し賑やかになった。
通路をはさんだ隣の席には、小さな女の子を抱いたお母さんらしい女の人が座った。
ふたりはこれから、遠い街で家族の為に働くこの子の父親に会いに行くのだ。母親は夫の為に精一杯みだしなみを整え、娘には前に父親からプレゼントされたお気に入りの靴下を履かせた。
彼はそう思った。でも僕は違った。
隣の親子はきっとこの子の父親に捨てられたのだ。生活は苦しくて、微かな縁を頼りにどこかの街の親戚にでも身を寄せるしかない。
そう見えた。
僕たちの感じ方はぜんぜん違っていたけど、ふたりが離れることは無い。だって僕たちはふたりでひとりみたいなものだから。
でも事件は起きてしまう。
車両の切り離しのためにその少し大きめな駅で列車は長く止まっていた。
隣りの席にさっきの女の子の履いていた靴下が落ちているのを見つけた彼は、急いで列車を降りて親子の後を追った。
「大丈夫。はぐれても終点できっと会えるから」
とだけ言い残して。でも発車の合図が鳴っても彼は僕たちの席に戻って来ない。やはり彼は乗り遅れたんだ。
靴下がないことに気づいて彼女は悲しむだろう。泣き続けて母親を困らせるだろう。
でもそれがなんだと言うんだ。
母親はあきらめなさいと言って娘を黙らせるかもしれない。同じものを買ってあげると言って機嫌をとるかもしれない。それでもだめなら鉄道会社に頼んで、忘れ物の中から探し出すことだってできるのだ。
たとえ靴下があの子の元に戻らなかったとしても、たいしたことじゃないし、そもそも僕たちには関係ないことじゃないか。
僕は列車のなかで残りの時間をそんな苛立ちの中で過ごした。
終点の駅に着いた僕は、次の列車の到着を待った。ごめんねと言いながら僕に駆け寄る彼の姿を思い描いて。
次の列車もその次もまたその次も。最終列車からすべての乗客が降りたあとも、僕は駅のホームで彼を待った。
心配した駅員さんが、たぶんその彼は切り離された車輌に乗って違う方角に行ってしまったのだろうと言った。そして僕を慰めてくれた。
「心配は要らないよ。その列車は違うルートを通るけど、最後にはこの駅に着くんだから」
それじゃあ、その列車が着くまでここで待っていると言う僕に駅員さんは小さく首を横に振った。
「残念だけど、あっちのルートはかなり遠回りで、しかも山あり谷ありなんだ。到着はそうとう先になってしまう」
それから僕は毎日のように駅に行き、彼の乗った列車の到着を待った。でも何日経っても何年経っても彼には会えなかった。駅員さんに尋ねても到着の予定はわからない。
「かなりの難所をいくつも通るからね」
申し訳なさそうにそう言うだけだった。
僕はいろんなものに腹を立てた。でもそれもやがてあきらめに変わった。彼はわざと違う方向へ向かう車両に乗ったんだ。
そうに違いない。
きっと彼は僕のことが嫌いだったんだ。最初からそのつもりで、そして見事に僕から逃げた。
あの時以来僕は自分以外の誰のことも大切に思ったことがない。そして英雄気取りの奴らをもっとも嫌った。そこにはきっと別の目的があるんだ。
あのとき靴下を握りしめて列車を降りた彼のように。
正義感も責任感も必死さや意志の強さもぜんぶ偽物に見えた。
そんな人生だった。
気がつくと老人は駅のホームに立っていた。軋むような音とともに一台の列車が彼の前に止まりドアが開く。
彼の前に立ったひとりの男。
髪と髭は伸び、肌の色は浅黒く服はボロ布のようだった。そして左腕は失われていた。でもその力強く綺麗な目には見覚えがあった。
「思ってたより時間がかかったけど、やっと会えたね」
彼は残ったもうひとつの手で老人の背中をそっとさすった。
「ああ、会えたのはとても嬉しいが、どうやら遅過ぎたようだ。もう私の命もそう長くはない」
彼は老人の言葉に少し笑った。
「なに言ってるんだ。少しも遅くなんてないよ。まだ発車の時刻まで時間がある。ふたりで始発に乗るんだよ。この前みたいに」
彼は優しく老人の手をとった。