そのアパートが建っていた区画は見事に消滅し、ショッピングモールの第3駐車場という名がつけられた広大なアスファルトの大地に姿を変えていた。
かつて僕の部屋があった2階部分はただの空気の層となり、街灯に照らされた小さな埃が舞うのが見える。
断片的な思い出がほんのひとときその中に浮かび、そして消えた。
この街で暮らし始めた頃、少し前まで抱えていたあの劣等感から僕はすでに抜け出していた。自分への嫌悪感と他人への羨望に満ちた負の感情との格闘の日々が、まるで他人のもののように思えた。
西日しか射さないあの狭い部屋の中でさえ、僕は希望の光のようなものに包まれ、そして季節は春だった。でもその静かに胸踊るような時間は長くは続かず、僕は抜け出せない長い迷路に放り込まれることになる。
あの日の彼女の言葉によって。
「もし自分がチビでデブでハゲてても、あなた今と同じ気分で街を歩ける?」
深夜に近い駅のホームのベンチ。隣に座る彼女は僕と同じ19歳になったばかりで、美術大学で抽象画を 描いていた。
絵の良し悪しなんてまるで分からなかった僕の目に、彼女の作品がとても魅力的に映ったのは、彼女のことが とても好きだったからかもしれない。
時々僕のアパートに泊まるような関係になってからも、彼女が僕のことをどう思っているのか、はっきりとはは分からなかった。僕にとって彼女が初めての女性だったし、彼女にとってもそうだったと思う。あの夜、まだぎこちなさが残る行為のあと、泊まらずに帰ると言い出した彼女を駅まで送り電車を待った。
「だからダメなのよ。あなたはあまり努力とかしないでしょ。苦手なことを克服しようと必死で頑張るとか、手の届かないものに少しでも近づこうとか、男の魅力ってそういうものだと思う。カッコ悪くてもみっともなくても」
彼女はいつになく早い口調でそう言うと、それからひと言も喋らなかった。乗らずに見送った車両が僕たちの前を通り過ぎ、微かな風が彼女の長い髪を揺らした。
そのとき彼女が言ったことの意味を僕は正しく理解できてはいなかった。
でもそれは僕の中のいちばん深いところに届き、それ以来一度も彼女と会うことの無いまま30年という歳月が過ぎた今でも同じ場所に留まっている。
痛みとは言えないほどの微かな重量を持ったおもりのように。
そして僕はその間、彼女の人生を遠くから覗き見るように生きてきた。大学在学中にいくつかのコンクールで新人賞をとったことで、彼女の名は広まり、その動向を知ることは比較的容易になった。もちろん彼女のほうは僕のことなど記憶の隅にすら留めていないだろうけど。
30歳になる少し前、彼女は有名なアートディレクターと航空機の中で知り合い、到着したハワイで翌日の朝に式を挙げ、次の年に娘をひとり生み、その直後に夫の浮気が原因で離婚した。
一連の出来事はメディアを騒がせ、結婚前からある程度はあった彼女の知名度は美術愛好者の枠を超えて高まり、作品の値も跳ね上がった。同時に揶揄の声も多く聞かれはしたが、彼女の作品がその後も評価され続けたことが、その才能が本物であることの証明なのだろう。
僕は時どき書店で彼女の作品集を手に取った。
年齢を重ねたところで、芸術的価値のようなものを評価する能力が得られるわけもない。でも19歳の時に感じたのと同じように、僕は彼女の絵がとても好きだった。それは僕の中のどこかの部分にそっと何かを届けた。
本を手に持ったまま目を閉じ、その何かを探す。
月明かりに照らされた浜辺を想う。
静かな波が砂浜を濃い色に染め、僕はほんのひと時息をとめる。
波が引き、そこに小さな欠片のようなものが残される。でもそれがいったい何なのかがまるで分らない。眼を凝らしても細部は見えず、近づこうとすればそれは消える。
僕は画集を購入することはなく、いつもそっと書棚に戻し店を出る。幾度となく催された個展にも決して足を向けることはなかった。彼女と顔を合わせる可能性は極めて低いだろうし、彼女が僕のことを覚えているはずはない。でも僕はとても怖かった。彼女は僕を見てこう言うかもしれない。
「だからあなたはダメなのよ」
だからもしも、彼女があの日みずから命を絶たなかったとしたら、僕がこうして彼女の絵が展示された場所を訪れることはなかっただろう。そしてもちろん、色彩を持たない時間の記憶しかないこの街に足を踏み入れることも。
個展の初日から数日たった平日の午後ということもあって、その小さな美術館に人はまばらだった。ぼくは少し安心した。彼女も混み合った美術館が好きではなかったから。
出会って間もない頃、彼女と行った美術展で、抽象画を描く理由を彼女に尋ねたことがある。
「富士山の絵を観て富士山しか見えない人が私の絵を観たら、きっと線と色しか見えないんでしょうね」
彼女はそう言って小さなため息をついたあと、僕の手にそっと触れた。
「考えてはだめ。ただ見るの」
あの時の言葉を思い出しながら、ひとつずつ作品を観ていく。
「探してはだめ。自然に見えて来るまで」
彼女の手のぬくもりが僕の手に伝わり、血液を温める。
「見えなくても焦らないで。あなたの中にそれはもうあるから」
あの夜、ひとりで電車に乗りこむ彼女の背中に、僕は何か声をかけるべきだったのだ。そんな後悔の思いがこみ上げてくる。キャンバスに描かれた線と色の向こう側にある彼女の心に少しだけ触れたような気がした。
第一展示室を抜け、片側に大きくとられた窓からきれいな木漏れ日が射す短い回廊を渡る。未発表の作品が並ぶ第二展示室に入ると、僕はその中のひとつに心を奪われる。
中心には塔をモチーフにしたようなものが描かれ、その上は黒雲のようなグレイ。塔の足元には川の流れのような無数の線が走り、その先にあるのは燃える夕日のような鮮やかな橙色の半月。
構図の中に人物は描かれていない。でもそこには人間の息づかいがはっきりと感じられる。そこにある生命の鼓動に耳を傾けると、やがてそれは僕の脈拍に融合していく。
「これは母の最後の作品なんです」
そう声をかけられ驚いて振り返った僕の心臓は、あきらかにそれまでと違う動きをした。目の前に彼女が立っている。あの時の19歳の彼女が。
「私はこれ、とても好きです」
動揺はひとときでおさまり僕は急いで状況を整理する。
「母?というとあなたは・・」
「はい、娘です。この絵をだいぶ長く観ていらしたので、つい声をかけてしまいました。お邪魔してすみません。ごゆっくりどうぞ」
彼女はそういうとほんの少しだけ微笑んで去っていった。その背中を見ながら僕はしばらく立ち尽くしていた。
彼女の最後の絵の前で。
美術館を出ると僕はまっすぐに駅に向かう。20年ぶりに足を踏み入れた街だったが、長居をするつもりは始めから無かった。
3年ほど前に行われた再開発で街の風景は大きく変わり、川に沿ったこの道も何かのサンプルのようなきれいな並木道になった。前方に見える鉄橋を渡る電車が夕日に照らされて光っている。
ここで暮らした時間は僕にとってどんな意味があったのだろう。自分のものの見かたや判断に自信が持てず、先に進もうとしているのに、気づけば元の場所に戻っている。明るい兆しが見え始めては消えるということが、何度も繰り返された。
あのとき電車の窓から最後に見た冷たい川の色を今でもよく憶えている。
面影すら残さず様相を変えた駅前の風景は、どことなく現実味の無いものだったが、それはかえって僕を安心させた。いまだに自分をこの場所にとどめようとしている何かが、この新しい街に上書きされたことで消し去られるのを期待したのかもしれない。
あの日々の舞台はもう存在しない。
そして彼女はもう死んでしまったのだ。
その事実を確認するかのように僕は暮れ始めた街を歩く。まるで故郷の街を深く沈めたダム湖の水面に浮かべたボートを漕ぎ進めるように。気がつくと僕はあの場所に立ち、街灯に照らされた中空の埃を見ていた。
そして気づいてしまう。
目に映る風景がどのように変わっても、街は僕の中で生き続けるのだと。
第3駐車場の金網沿いに駅へ戻る道を歩きながら、僕はどうしようもない無力感に襲われる。知らない間に世界はどんどん変化しているのに、僕だけが同じ場所に留まっている。
克服したと思っていた思春期のあの凄まじい劣等感も、僕は目をそらし忘れようとしただけなのだ。拠り所にした価値あるものすべては社会の仕組みの中では塵ほどの意味も持たず、そこからも逃げ出した。僕はただもがいているだけで何とも闘っていなかったのだ。
そして僕はまた逃げようとしている。
あの時の彼女の言葉からも。
気がつくと僕は泣いていた。涙が身体の中心から湧きあがりとめどなく溢れ頬を伝う。胃のあたりを締め付ける鈍い痛みはやがて嗚咽を呼び、金網にすがりつくようにその場にひざまずいた。
自分の中に次々に沸き起こる感情を抑えることができず把握すらできない。様々な光景が意識の隅をかすめ、後悔と自責と無力感が交互に襲う。それらはやがて混沌となり激しい怒りへと姿を変える。対象のない怒りには出口がない。鎮めることも吐き出すことも出来ない怒りは僕の全身を震わせ、うまく呼吸が出来ない。このまま死んでしまうかもしれないという恐怖と収まらない激しい感情に気が狂いそうになりながらも、ほんの僅かな理性が自分に語りかけ、記憶の片隅にある言葉を指し示す。
《怒りは二次的な感情なの》
誰の言葉だっただろう?
《その前には必ず違う感情がある》
僕はそれをすでに知っている。
《その怒りを生む感情を探すの》
ずっと前に聞いたような。思い出せないくらい昔に。僕は深く息を吸いゆっくりと吐き出す。
血液に送り込まれる酸素を思う。
震えが小さくなり息苦しさが和らぐ。怒りを生む感情。虚しさだ。過ぎてしまった歳月。決して戻せない時間。どんなに悔やんでも変えられない過去。過ぎ去った時間を誰も責めることは出来ない。時間に罪などないのだから。
渦巻いていた嵐のような感情は、電源を抜かれたファンのように急速に勢いを失い、余韻を残しながらどこかに去っていった。
呼吸が整うのを待ってから鞄を開け、ティッシュペーパーで鼻をかみハンカチで汗を拭った。ゆっくりと立ち上がり、両足が地面を踏みしめる感覚を確かめる。空を見上げると雲の間から白い月が見え隠れしている。
遠くで波の音がきこえたきがした。
僕は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出してから駅への道を歩き始めた。突然襲われた身体の異変の名残りで全身に気だるさは残っていたが、足取りは思いのほか軽く、吸い込む空気は爽やかだった。駅前を行き交う人たちの人生が、少しだけ現実的に思える気がした。
ホームで電車を待っていると後ろから声をかけられた。振り返る瞬間によぎった人物の姿がそこにあった。
「先ほどは失礼しました。またお会いしましたね」
やはり、あの頃の彼女ととてもよく似ている。
「ええ、あ、実はあなたのお母さんのことを知っているんです。といってももう30年も前のことですけど。今のあなたと同じくらいの頃かな」
自分でも思いもよらず咄嗟に出た言葉だったが、彼女は驚いた様子もなく小さくうなづいた。
「もしお急ぎでなければ、少しお話しできませんか?」
そう言って彼女はホームの端にあるベンチを指した。並んで座り彼女の顔を間近にすると、僕は少し緊張した。
「似ていますか?母の若い頃に」
「あ、ええ、そうですね。そっくりというか、よく似ています。そう言われませんか?」
彼女は微かに笑ったような表情で小さく首を振った。
「昔の母を知っている人は私の周りにはいないんです。誰も。母は自分で言っていました。いつも過去を切り捨てながら生きてきたと」
僕はどう答えたらいいかわからなかった。僕たちの人生が交わったあの頃のごく短い時間だけで、彼女の生き方について意見をもてるわけもない。そして自分が、その切り捨てられた過去の小さなピースのひとつに過ぎないのだと思うと、やはりそれは快いものではなかった。
「お母さんのことを知っているといっても、ほんとにちょっとした知り合いなんです。だから正直なところよくわからない。彼女のことは」
「私にもわかりません。母のことは」
その少し寂し気な横顔を見て僕はハッとした。自分の母親を自殺という形で失った若い女性に、まずかけなければならない言葉があるのではないか。それに気づかずにいた自分にいら立ちを感じながら言葉を探したが、正しいと思える言葉が見つからない。そんな僕の心情を察したように彼女は話し始めた。
「母が死んで、私は少しほっとしたんです。こんなこと言うと叱られますから誰にも言いませんけど。母は 自分に厳しいのと同じように他人にも厳しかった。もちろん娘の私にもです。あまり口数の多い人ではなかったし、どちらかというと穏やかに話すタイプでした。でも時々、ほんとに時々なんですけど、とても冷たい口調で私を責めました。幼い頃はただ戸惑うばかりでしたけど、大きくなるにつれて私は反感を覚えるようになりました。母の言うことは確かに正しいことでしたけど、なんていうか、人間の弱い部分みたいなものを許さないところがありました」
彼女は数メートル先のホームの縁のあたりを見ていた。その視線の向け方にはやはり母親の面影がはっきり見えた。
「そんな母のことが好きになれず、私は高校から家を出て寮に入ったんです。でも今では分かる気がします。母も苦しんでいたんだということが。自分の中のどうしても変えられない何かに。いろんな人が私に聞きます。自殺の兆候のようなものは無かったかって。私には分かりません。もしかしたら、ずっと前から考えていたのかもしれないし」
何かのイベントが終わったらしく、まとまった数の人がホームに押し寄せ、にわかに騒がしくなったが、ちょうど入ってきた電車にそのほとんどが乗り込み、また静けさが戻った。
「中学生の頃、母に尋ねたことがあります。人はなぜ生まれてくるのかって。学校でいじめとかいろいろあって、そのころ私はそんなことばかり考えていたんです。母の答えはとてもきっぱりとしたものでした。それは課題を仕上げるためだと」
「課題、ですか」
「はい。それまでは生きなければならない。逃げ出すことはできるし、そうすることは簡単だけど、そうしたら始めからやり直し。同じ課題をもって生まれてくる。だから私は母に言いました。やり直せるなら私も逃げ出したいって。でもそれは本気じゃなかった。私には死を考えるほど深刻な問題はありませんでしたから。ただ母に反抗したかっただけです」
「でもお母さんは心配したんじゃないかな」
「はい、たぶん。あなたの課題は自分だけのものじゃない。関わった全ての人の課題になると母は言いました」
「関わったすべての人」
「おかしいですよね。過去を切り捨てて生きている人の言うことじゃない。でもそれが勝手に死んではいけない理由でした。でも母は自殺した。勝手ですよね。ただそのことで、私は少し母が好きになりました。最後に自分の弱さを見せてくれた母のことが」
あの夜、この駅のホームで言われた言葉。
それが彼女のいう課題ならば、僕はそれからの人生をその課題に答えを出すことだけを考えて生きてきたきがする。
言葉として彼女の言った意味を理解することと、人生のあらゆる局面でそれに沿った選択や決断をすることとの違いを感じるたびに、自分自身への苛立ちと無力感にさいなまれた。
でも僕はそんな自分を受け入れられる気がした。そして、まだ抱えたままのその課題にこれからも向き合って行くということも。
彼女が生きていてもいなくても。
「母が死んで安心したというのは、私が厳しい母から解放されたからではありません」
「解放されたのは彼女自身ということですね」
「はい」
彼女は少し安心したようにうなづいた。
「そういえばどうしてこの街で個展を?」
「あの絵、さっき見ていらしたあの母の最後の絵。タイトルはつけていませんでしたけど、ほんとうはあったんです。母のつけたタイトルが。でもちょっと、なんていうか、絵のタイトルとしては不自然で」
「不自然?」
「あってもいいと思うんです。そういうタイトルの絵も。でも、母の今までの絵には無い感じで。それでいろいろ迷ったんですけど、無題ということで展示することにしました。そのかわりというか、そのためにといった方がいいと思いますけど、今回の個展の場所にこの街を選びました」
「つまりそれは、そのタイトルというのがこの街に関係しているものだという意味でしょうか?」
彼女がそのとおりだというようにうなづくと、ちょうど構内アナウンスが特急電車の通過を予告した。そのアナウンスが終わるのを待って彼女は言った。
「住所なんです。この街の。しかもかなり詳しくて、アパートの部屋番号まで」
彼女がその住所を言い終わるころ、特急電車の先頭車両が僕たちの前を通り過ぎた。小刻みに響く鈍い金属音と風を切る音が続いたあと、波が引くように静寂が訪れた。
「その場所は知っています。僕がむかし住んでいた部屋です」
彼女は特に驚いた様子もなく小さく頷いた。
「私も知っています。そのタイトルを見てからすぐに行ってみたんです。もしそのままあの絵を発表してしまって、その部屋に誰か住んでいたとしたら、ちょっとした騒ぎになってしまうでしょ」
彼女が少し笑ったように見えた。僕の気のせいかもしれない。
「3年前まであったそのアパートはもうありませんでした。役所で調べたんです。街の再開発で、その区画は整理されて駐車場になりました。でも私はその場所に立ってみてわかったんです。あの絵は間違いなくここを描いたものだと」
僕は街灯が照らす埃の舞う中空を想った。
そして彼女と過ごしたあの狭い部屋の湿った空気を。
あの夜、突然帰るといってシャツのボタンをとめている彼女の背中を。
「すみませんでした。長くお引き留めしてしまって。私は次の快速に乗ります」
彼女は目線を上げて液晶の掲示板を見ながら言った。僕が住んでいた頃、この駅には各駅停車しか停まらなかった。時の経過はいたるところで僕に何かを伝えようとしている。
「僕はもう少しここにいようと思います」
彼女は優しく微笑むとゆっくり立ち上がってお辞儀をした。僕も慌てて立ち上がった。美術館で彼女を見たときは驚くほど.似ていると感じたが、あらためて正面から見る彼女は、母親といろいろなところが違っている。ただ、額の髪の生え際の感じだけが、蘇る面影と重なった。
「お会いできてよかったです」
彼女がそう言って背を向けてしまうと、僕はとても寂しい気持ちになった。しかし、かけるべき言葉が何も無いことは分かっている。彼女を乗せた快速電車の四角い後ろ姿が小さくなりやがて視界から消えると、ホームにはほとんど人影がなくなっていた。空を見上げるとさっき見た白い月が浮かんでいる。雲はすっかり晴れ、その輪郭は僕に宇宙に浮かぶこの惑星を想わせた。
数か月後に彼女の追悼の作品集が発行され、最後のあの絵には長いタイトルがつけられていた。