彼が山奥の病院に手紙の差出人を訪ねたのは、まだ暑さの残る9月の中頃だった。
車両とホームの間には20センチほどの隙間があり、それは隙間というより、もはや穴というべきものだ。わずか1メートルあまり下には石粒を敷き詰めた地面が存在しているはずなのに、そこには無限に続くかのような暗闇が広がっている。
採算のとれていない田舎の単線の駅とはいえ、この危険な状態が放置されていいはずは無い。自分でも気づかないくらいの微かな苛立ちとともに彼は一両編成の電車を降りた。
ホームに屋根は無く、辺りの景色は午後の陽ざしに包まれている。
その明るさと足もとの暗闇との対比に体の重心が小刻みに揺れるような感覚を抱えたまま、改札を抜け小さな駅舎を出る。いかにも寂れた温泉街というその風景は彼を奇妙な気持ちにさせた。
自分はここに来たことがある。
しかしそんなはずは無い。どう記憶を辿ってもこの場所には縁もゆかりも無いのだ。
駅前の小さなロータリーの中央には水の涸れた円形の噴水があった。それを囲むような形で造られた階段状の花壇のタイルのほとんどは剥がれ、土台のセメントが露出している。
その向こうに見える小さな観光案内所とタクシー会社の事務所の横に立てられた大きな周辺案内図はまさに風化の途を辿っていた。
隣の長屋風に建てられた3軒の店舗のうち中央にはシャッターが下り、両脇の土産物店と喫茶店には、かろうじて営業しているとわかる程度の灯りが点っている。
事務所の前に停めてあるタクシーに運転手の姿は無い。
彼が事務所をたずねようかと思っていると隣の観光案内所から小柄の中年の女性が勢いよく出て来た。
「お兄さん、タクシー乗るかい?」
派手な化粧にひと昔前のバスガイドのようないでたちのその女性はそう言うと、彼の答えを待たずにサッと身を翻して喫茶店に向かい、ドアを引いて顔だけを店の中に入れて声をかけると小走りで戻って来た。
「すぐ来るから」
なぜか小声でそう言うと案内所に戻って行った。特徴的な女性の動きに彼が少し戸惑いながらその後ろ姿を見ていると、喫茶店から運転手らしい男が出て来た。
「いやぁ申し訳ない。お待たせしました」
右手に持った運転手帽を軽く掲げながらそう言うと、ニヤッと笑った。あまり印象の良い笑顔では無い。
良く日に焼けた60歳くらいの痩せた男で、白い前歯がやけに目立つ。あのねずみ男の衣装を脱がせて運転手の格好をさせたらきっとこんな姿になるだろう。
後部座席に座り行き先を告げると、運転手はルームミラー越しに彼を見てから微妙な間をおいて言った。
「仕事で?それとも面会か何かです?」
不吉な予言について恐る恐る尋ねるような妙な響きがある。
「ちょっと人に会いに」
その答えに無言で軽くうなづくとギヤをドライブに入れ、ロータリーを半周し《ようこそ》と書かれた温泉街のアーチの下を通って狭い道に入った。人通りがほとんど無いとはいえ、道幅の割にスピードが速い。
「この辺、よく来るんすか?」
運転手はまたルームミラー越しに彼を見た。
「いえ、初めてです」
運転に集中して欲しかった彼は手短かにそう答えた。
つき当りにある神社の赤い鳥居の手前を右に曲がると急な下り坂になり、その短い坂を下りきった辺りで運転手は左側を指差した。
「ここは昔ストリップ小屋でしてね。ほら、昔の温泉街にはたいてい一軒ぐらいそういうのがあったでしょ。浴衣着たオヤジたちが下駄鳴らしてハダカ見に来て。それにご婦人方もけっこうくっついて来てましたよ。女ってのもまあホントは好きですからね、そういうの。ま、女性のお客さんにはこんな話できませんけどね。このごろ会社からも厳しく言われてますよ。そういうの」
彼が反応する間も無く、運転手の話は続く。
「アタシが中学の頃に潰れちまったから中に入ったことは無いすけどね。もう大昔の話です。そうそう、ひとつ上の先輩にあのストリップ小屋の息子がいて、だいぶそのことでいじめられてましたよ。小屋が潰れた時に家族ごと何処かに行っちまったけど、その後そいつはヤクザになって、昔いじめた奴らを片っ端から半殺しにして廻ったんすよ。新聞にも載った事件で、それもこの街に残ってた相手だけじゃなくて、日本中廻ってそれやったんだから、映画みたいな話ですわ」
タクシーは温泉街を抜けると短い橋を渡り、さっき下った分くらいの坂を上りしばらく走ってから信号機のある交差点で止まった。赤信号を待っているとまた運転手が話し始めた。
このねずみ男は沈黙が嫌いらしい。
「この辺りにはゴルフ場が五つもあってね。ひと昔、いやふた昔前までは結構ゴルフ客で賑やかでしたよ。ゴルフやって温泉入って夜はどんちゃん騒ぎ。いい時代だった。ゴルフ場も今やってるのは二つだけになって、他の三つどうなったと思います?ソーラーですよ。ソーラー発電所。ゴルフ場がどんどん閉鎖になったと思ったら、あのパネルですよ。気持ち悪いパネル。まあみんな生き残るために必死だから、しょうがないんすけどね。何でもゴルフ場ってのはソーラーにはちょうどいいらしくて、土地の造成は済んでるし、なんたって管理用の通路、ほら軽トラックとかが通れるやつ。あれがもともと付いてるんだから。その気になったら今日の明日でパネルが並べられるってわけですわ」
タクシーは交差点を直進すると緩やかな上り坂を道なりに進んだ。次第に人家が少なくなり木々の緑が深くなる。
ねずみ男の話は続いていた。
「でもあのソーラーってのはどうなんでしょうねえ?アタシには難しいことは分かりませんけど、本当は地面に当たるはずの太陽を横取りしちまうわけでしょ。人間の勝手で。ほら、生き物とかいるわけで、その下に。なんかただじゃ済まない気がするんすよね。いつか仕返しに来たりして、あのヤクザみたいにね。ははっ」
さっきの話とうまく繋がったのが嬉しかったのか、ねずみ男は小さく笑った。
人家は全くなくなり、タクシーは急なカーブをいくつか曲がりながら坂道を上った。
「もうちょっとでひと山越えるからそうしたらもうすぐです。この辺りも紅葉の季節には・・」
と言いかけてねずみ男は左側を指差した。
「ほら、あれですよ、ソーラー。気持ち悪いでしょ」
谷をひとつ隔てた向こう側の山には、太陽光発電所へと姿を変えたかつてのゴルフ場が見える。山肌を埋め尽くしたパネル群は午後の陽ざしを受けて、青とも黒ともつかない色に輝いている。それは山を這い登り、地上のもの全てを飲み込もうとしている得体の知れない巨大生物のようにも見えた。
「この先世の中はどうなるんでしょうねえ。まあアタシたちは老い先短いから別にいいんすけど、このまえ孫も生まれましたからね」
長い歴史を振り返れば、世界は確実に良い方向に向かっている。それなのに日々自分たちの身の回りに起こることは不満や不安に充ち溢れているのは何故なのだろう。
かつてこの山を切り開いてゴルフ場が造られた時、人々は嘆き、不快感を訴えたことだろう。いつの日か人々はこのパネル群を懐かしく思う日が来るのかもしれない。
後部座席の窓から見えるその景色はなぜか彼に郷愁めいた感覚をもたらした。
タクシーはまたいくつかの急なカーブを曲がりながら今度は少しずつ坂を下った。その間ねずみ男は無言だった。生まれたばかりの孫の行く末を憂いているのかもしれない。
まもなく木々の間から白い建物が見え隠れし始める。
「もうすぐ着きますよ。でも何でこんな不便なところに造ったんでしょうね。まあ我々土地の者にとっちゃその方がありがたいすけどね」
ねずみ男の声の調子が心なしか変わった気がした。
「お客さんは関係者みたいだからこんなこと言っちゃ悪いけど、あんまり良いもんじゃないすからね。こういう病院は」
玄関前でタクシーを降りた。
料金を払う時、用事がすぐ済むなら待っているという運転手に、いつ帰れるか分からないと告げて断った。彼は少し残念そうにまたニヤッと笑った。初めの印象ほど悪い感じはしない。
その病院の外観は白を基調とした無機質な印象で、建てられてからそれほど経っていないらしく、傷みも少なくとても清潔そうだったが、視界に入る限りの全ての窓に取り付けられた金属製の格子が、ある種の威圧感を放っている。
建物に入り受付の女性に名前と要件を告げると、内線電話をかけた後で席を立った。
「ご案内します」
カウンターから出て来た受付の女性はスタイルがよく歩き方もとても綺麗だった。彼女は先に立って歩きながら、
「院長は別棟におりますので」と言った。
優雅に歩くシャム猫のような後ろ姿に見とれていた彼は、
「あ、はい」と気の抜けた返事をしただけだった。
長い廊下の突き当たりの扉を開け、連絡通路を通り同じように無機質な印象の別棟に入った。別棟と言ってもごく小さなもので、屋敷の離れや茶室といった規模のものだ。
受付の女性がノックをし、返事を待ってからドアを開けると微かに消毒液の匂いがした。
部屋の中は彼が想像したものとは違い病室そのものだった。白いパイプベッドの脇には計測機器が置かれ、点滴用のポールが立っている。ベッド脇の大きな窓には金属の格子は無く、外には深い森が広がっている。
背を起こしたベッドにその人物の姿はあった。
「こんな格好ですまんね」
受付の女性がお辞儀をして部屋を出ていくと、手に持っていた本を脇の小さなテーブルに置いて彼はそう言った。
時間をかけてたくわえたと思われる白髪交じりの髭が顔の下半分を覆っているせいで年齢の見当はつけづらかったが、おそらく二か月ほど前に亡くなった自分の父親と同じくらいだろうと彼は思った。
「ご病気なんですか?」
彼はベッドから少し離れた位置に立ったまま、その院長と呼ばれる人物に尋ねた。
「病気というか、まあ、若い頃の無理がたたったのか、免疫が極端に落ちてしまってね。しばらくはこの部屋の外には出られない。あなたにうつるような種類のものじゃないから心配しなくてもいい」
どう答えたらよいのか分からず黙っている彼に、院長はベッドの足元から少し離れた所に置かれた小さなソファに掛けるように手振りで勧め、向き合うような位置に座った彼をベッドの上から黙って見つめていた。
「さっそくで申し訳ないのですが、私の父から頼まれていることがあると、頂いた手紙に書いてありましたが、やはり私の病気のことでしょうか?」
相手が話を始める気配が無いのを見て彼がそう言うと、院長はベッドの上で少し体を起こした。
「その前に少し私の話を聞いてもらいたい」
彼がもちろんというようにうなづくと、院長は小さな咳ばらいを一つしてからゆっくりと話を始めた。
「いわゆる精神疾患というものは、数値的なデータや画像だけで診断することはできない。医師の判断のもとになるもののほとんどは患者が自ら語る物語と、それを症状と結び付けてきた臨床データの蓄積のみ。その推察の域を出ないともいえる判断を、脳内の神経伝達機能をコントロールするような投薬によって少しずつ断定的なものに近づけて行くしかない。いっそのこと誰かが数値的なラインを引いてくれたらどんなに良いか。そもそも存在しないボーダーラインをどこにひくかという判断が医師に一任されていることがどれほど危険なことか」
院長はそこまで話すと、ベッドの脇に置かれた計測機器のパネルに目をやり、また小さな咳払いをした。
「精神科医は心理学者ではない。もちろん宗教家でもない。医療行為が許されるか否かという問題ではなく、そこには本質的な意味で超えてはいけない境界線があるべきなのだ。私の父は医師だったが、あるときから潜在意識の研究に没頭し、その人生のほとんどを費やした。この潜在意識の研究は突き詰めていくと魂の領域に入ってしまうことがある。魂は時間も空間もない世界で互いに関わり合いながら永遠を生きる。同じ故郷を持った魂たちはグループを作り、時には物質的な世界で出会い別れすれ違い、そして故郷に帰る。それを繰り返しながら魂は自らを成長させ、究極的な存在を目指す。そんな話をする父を私は軽蔑していた。しかしそう考えるとほとんどのことは説明がついてしまう。 人間が人生の中で対面する苦難や障害が魂の成長のための課題であるとすれば、誰もが必ず死に行くと知りながら、人は何故わざわざこの世に生まれるのかという究極の疑問にさえ容易に答えられてしまう。もし同じ問いに科学的な立場で答えるとすれば、ひとりひとりの人間は、この物質世界を永続させるためのひとつの要素であるとしか言えない。はたしてどちらの答えが私たちに生きる活力を与えてくれるのか」
院長の喋るペースは次第に早まり語気も強くなっていった。
話の内容はなんとか理解できたものの、その意図がわからず彼は続きを待ったが、院長は黙ったまま彼の目をまっすぐに見ていた。そのまなざしは彼に病床の父親の姿を思い出させる。
まるで日陰の道をわざわざ選んで歩くかのように生き、すでに青年期を終わろうとしている我が子の人生を、父親はどんな想いで見つめていたのか。それを考えるとき、彼はいつも深い森に迷い込んだような絶望感に襲われる。
亡くなる少し前、父親は薄れゆく意識の中で、自分の死後に届くであろう手紙について言い残した。
手紙の主を尋ねるようにと。
意識の混濁が生んだ妄想と思っていた彼は、実際に手にしたその手紙の差出人を見て父親の想いをくみ取ることになる。
「今のお話が私の拘束恐怖症と関係があるということでしょうか?」
黙ったままでいる院長に彼が問いかけたが沈黙は続いた。
もう長年の付き合いになる彼の主治医は催眠療法とカウンセリングにより、幼少期に友達との遊びのなかで受けた布団による拘束が彼の症状の原因と確定し、暗示療法や退行催眠療法など考えられる策を尽くした。しかし何年たっても改善の兆候すら見えず、投薬による症状の抑制以外に手立てはなかった。
「急ぐ必要はない。いや、急ぐことに意味などないのだよ」
院長が口を開いた。
「どういう意味でしょう?」
「すべては決められていることなのだから。そしてそれはあなた自身が決めたことでもある。その時を待つしかない」
「その時?」
「あなたが息子を助け出したとき、同時にあなた自身も解放される」
「息子?私に息子は・・」
「息子を救うために全力を尽くすことだ。どんなものとも闘う覚悟で」
彼の言葉を遮るように院長はそれまでよりも強い口調で言うと、そのまま目を閉じた。
「申し訳ありませんが、あなたの言っている意味は全く分からない。はっきり言って、占いや予言の話の類にはうんざりなんです。私の父はあなたに何を頼んだんでしょうか?」
しばらく待ったが返答はない。目も閉じたままで、まるで眠っているようだ。
彼は小さなため息をひとつついて立ち上がり部屋を出た。この訪問にどんな意味があったのかと、心の中で父親に尋ねたがもちろん答えはどこにもない。受付の女性は難しい表情で戻ってきた彼に気づくと立ち上がってお辞儀をした。
「すみません、あの院長というのはどういう方なんですか?少し変わってるというか・・」
彼がそう言うと、彼女はわずかにいたずらっぽい表情になった。
「あ、院長というのはあだ名です。ここの患者さんはみなさんあだ名で呼ばれているんです」
「患者さん?」
「はい。あの人は今よく眠っているはずです。そして夢を見ています。あなたの夢を」
* * * * * *
浄水場へと続く用水路はその途中で小さな川を渡った。
分厚いコンリートで蓋をされたその用水路は川を渡る部分だけが頑丈そうな鉄でできていて、長さはだいたい10メートルくらいだろう。
造られた時にはおそらく鮮やかな赤い色だった幅50センチほどの四角い鉄の筒は、塗装の剥がれた部分から始まった錆の浸食によりその精気を失いつつあった。
上部には人が歩けるように目の粗い鉄製の網のような蓋がはめ込まれ、片側にだけ大人の腰の高さくらいの手すりが付けられていた。
手すりをしっかりと掴んで鉄の網の上に立ち辺りを見渡す。
上流に目を向けると、川は思っていたよりも鋭い角度で折れ曲がりながら深い森の中へと続いている。下流の方向に森は次第に拓け、川は少しずつその幅を広げながら街の中心をなす温泉街に向かっている。
水深が適度に深く流れが緩やかなその溜まりのような場所は、夏休みの少年たちの格好の遊び場になっていた。彼らは母親が作ってくれたおにぎりと麦茶の入った水筒とプール用の大きなタオルを自転車の籠に入れて、汗だくになりながら登り坂を漕いだ。
大人たちが子供の冒険心のようなものを尊重していた頃の話であり、余計な心配をしている余裕のなかった社会の話でもある。
いずれにしても、山肌をけずり相次いでゴルフ場が建設されたことで川の水は危険なものとなり、そんな少年たちの夏休みは過去の情景としてのみ記憶されることになった。
川を渡る鉄の用水路は下から見上げると大きな河川に架けられた鉄橋のように見えた。
高さはそれ程でもなく、少年たちの度胸試しに使われた。五人にふたりは躊躇なく川面に飛び降り、ふたりは直前で降参し、ひとりは登る前に諦めた。その程度の高さだ。そしてそれはその場所でのリーダーを決める暗黙の儀式でもあった。あるものはそれを素直に受け入れ、あるものは悔しさを覚え密かに逆転を夢見た。
水遊びに飽きた少年たちの好奇心は当然のことながら用水路の上流へと向かい、未知の世界への探索が始まることになる。
森は次第に深くなり、少年たちが目印として辿ったコンクリート製の蓋は徐々に地面に埋まりやがて消えた。水場のリーダーが提案した探索のうち切りに反対する者はいなかった。舞台が変わったのを機に逆転を試みたひとりの少年を除いては。
賛同者を持たない彼は単独で道しるべの無い探索を続けることになる。迷宮から宝物を持ち帰った自分を皆が勇者として讃えるのを夢見て。
ところが彼がそこで得たものは宝物でも称賛でもなく、その後の人生に影を落とす呪いのようなものだった。
その日以来彼は先頭を歩くことを望まず、未踏の地へ進む選択を避けた。彼の本来の素性が幾度もそこからの脱却を試みたが、気づけばその場所へ引き戻され、そして毎夜、閉所で発狂する悪夢にうなされ続けた。
崩れ落ちた瓦礫の下で、上下の岩に挟まれた暗い洞窟で、首から下をコンクリートで固められたドラム缶の中で、彼は死をも超えた恐怖に叫びを上げる。
木々は折り重なるように葉の色を濃くし、まだ高いはずの日の光を遮った。僅かに生き物の足跡を感じさせる道とは言えぬ木々の切れ目と、その脇に落とされた紙屑やビニール袋の類だけが彼の不安を和らげた。
帰り道を見失う恐怖にパン屑や糸巻きを想ったが、彼の手には何もなかった。
やがて恐怖心が暗雲のように少年の心を支配し始め、僅かに残る好奇心を呑み込もうとしたところでその建物は現れた。
薄汚れたモルタル塗りの壁には無数のヒビが入り、その壁づたいに這わされた雨どいは地面に到達するだいぶ前の部分で抜け落ちている。不安の極限に近い状態で現れたその建物は、少年にとって恐怖と救済が複雑に混ざり合ったものだった。
少年の恐怖を増す材料になったのが、全ての窓につけられた鉄格子だったことは間違いない。
しかし少年は限られた選択肢から、更に建物に近づくことを選び、やっと背の届く窓から中を覗き込んだ。
白衣を着た医師のような男と女がひとりずつ。パイプベッドに寝かせた小さな男の子を押さえつけている。
ふたりは何か言い争っているように見えたが、やがて女の方が手に持った注射器を身をよじって抵抗する男の子の肩に当てた。
少年は怖くなりすぐにでもその場から離れたかったが体は全く動かなかった。
その光景から目をそらすことすらできない。
少しすると男の子の体の動きが止まり、少年の覗いている窓の方にその顔だけを向けた。そして涙に潤んだ目で少年を見た。その瞳は少年を捉えて離さなかった。
再び体を大きくよじって何かを叫びながら医師たちに抵抗し始めてからも、その目は少年を見据えていた。猿ぐつわのようなもので口を塞がれたその叫びはほとんど空気を振動させることが出来ず、もごもごと籠った小さな唸りに過ぎなかったが、少年の耳には鮮明な言葉となって届いた。
「助けて・・お父さん」